2018年11月14日水曜日

天野健太郎先生を悼む

 天野健太郎さんを知ったのは、12年の「台湾海峡一九四九」を読んだ時だ。
 2012年7月の東京国際ブックフェア、毎年訊ねていっていた台湾ブースの、受付卓に、台湾海峡の宣伝カードが置いてあった。発売されたばかりの本であり、しかもその直前に読んでいた台湾漫画が描いていた時代の直後にあたる時代だということもあって、即座に白水社のブースへ向かい、一冊購入してきて一気に読んだ。
 女性の一人称による文章を、不自然にべたべたもきゃらきゃらもさせることなくごくあっさりと静かにそれでいて力強く、ここまで違和感なく訳せる男性翻訳者がいるのだということに驚き、天野健太郎という名は私の中に鮮明に焼き付いた。読んでいてとにかく気持ちのいい訳文で、美味しい水でもごくごく飲んでいるような気分になる日本語だった。そして後書きで触れられていた、龍應台さんの次作を、この人の訳文で読んでみたくてたまらなくなった。

 デビュー前から私が常に志してきた、日本語として違和感のない訳、その理想体を見出した気分だった。それ以来、天野さんは尊敬する先達にして、神にも等しい憧れの存在となった。この人と同じ、翻訳という舞台にいることが嬉しかった。

 龍應台さんの次作も絶対に天野さんの訳で読みたいのだと、白水社のブースに告げに行き、時期は未定だが天野さん訳で出ることが決まっているとスタッフさんから聞いて狂喜乱舞した。数年経ち、台湾文化センターでイベントをしてらっしゃると知って、会場でサインをいただけた(どの本を持っていこうか、前の晩、悩みに悩みぬいた)。感想を伝えることもできた。別なイベントで、疑問に思っていたことを質問したり、天野さんの考えを訊くこともできた。

 特に、「星空」のトークイベントと、キャンセル待ちでなんとか潜り込めた翻訳フェスティバルで耳にできた話は、本当に貴重だった。事前申し込みだとうっかり気付かず、気付いた時には既に満員御礼になっていた翻訳フェスに、立ち見でいいのでなんとか潜り込めないか事務局に問い合わせてまでなんとか入場したのは、今にして思えば本当に、最後のチャンスを掴み取っていたのだ。

 そして今回、初めてご一緒に仕事ができる機会を得ていた。リング下で歓声を上げるファンとしてではなく、同じ翻訳者として同じリングに上がり、同じ本と向き合える、ようやくそこまで来れたのだと、有頂天になっていた。天野さんの訳と私の訳が同じ本に収録されるのだと、まさに天にも昇る心地だった。本が出たら絶対にまたサインを頂て一冊は永久保存版にし、親父の位牌の前にも一瞬くらいは供えようと思っていた。

 まさかこんな奈落が待っていようとは。

 一ファンとしてではなく、翻訳者として私が天野さんと同席することが出来たのは、一時間の打ち合わせと、代々木まで歩いたわずか五分の道中だけだった。
 普段どういうものを翻訳しているのかという話から、翻訳の情報発信にSNSは使っているのかという話になった。Facebookを使っていると答えたところ、Twitterはやらないの?と訊かれた。Twitterはどうも怖い気がして、と答えたところ「あー、それはわかるな」とおっしゃった。たぶんこの先あの道を歩くたびに思い出すだろうと思う。翻訳者同士として翻訳の話ができたのは、本当にその時だけだった。

 思えば天野さんは、台湾本の翻訳の最前線で孤軍奮闘しておられたのだ。

 いつか追いつきたいと思っていた。そしてようやく同じリングに上がれることになった。肩を並べて戦うとまではいかなくても、無様なところは見せたくない、まして足は絶対に引っ張りたくないと、万全の姿勢で臨むべく私がリング下でウォーミングアップに励んでいる間に、天野さんは病という流れ弾に当たって、永遠にリングからもこの世界からも去ってしまった。

 私に天野さん訃報を知らせてくれた友人は言った。同志を失った気分だ、と(おこがましいけど、と前置きを付けて)。

 ならば私は、戦友になることすらできないうちに、尊敬する戦士に目の前で死なれてしまったのだろう。

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